
愛知大学の監督を18年間勤め、中でも、無名校だった現中日ドラゴンズ岩瀬投手を抜擢し育てたことに定評がある。
また、03年春の愛知大学野球リーグでは、36年ぶりの1部リーグ優勝、全日本大学選手権出場を導いた。
現在は、愛知大学野球部副部長。

1973年、大学4年生の時には全日本大学野球選手権大会における準優勝に貢献した。また、日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。
1973年、読売ジャイアンツからドラフト1位指名を受けるもこれを拒否。その後、熊谷組硬式野球部に進む。都市対抗野球などで活躍したのち、愛知学院大学硬式野球部監督に就任、現在監督は退任。

1956年、中日に入団。入団当初は外野手兼投手として1軍のマウンドに9試合登板した事がある。しかし4年目からは野手一本となり通算890試合に出場した。現役引退。その後は球団スカウトを務めていたが1982年、14年ぶりに現場へ復帰しコーチ・二軍監督等を務めた。
その後再びフロント業務にたずさわり、チーフスカウト等も歴任した。

岐阜・美濃加茂高校から名古屋学院大学へ進学。卒業後は指導者への道へと進み、誉高校硬式野球部コーチを務める。

岐阜・中京商高から三協精機を経て1978年ドラフト4位で中日入団。1985年現役引退。引退後は佐川急便野球部(軟式)に所属、元同僚の大河原栄、栗岡英智らと共にプレーし、のち同野球部の監督も務める。

愛工大名電高校から社会人野球大仙 でプレー。その後軟式野球の東海理化でプレーした。現役を引退した後、豊田大谷高校で、中村豪氏が監督就任するまでの間、監督を務めた。同氏が監督の間、コーチとして支えた。

瀬戸窯業高校から社会人野球大仙 でプレー。その後軟式野球の大森石油でプレーした。現役を引退した後、緑丘商業高校で監督を6年間務めた。その後、大森石油の監督を務める。

